年 | 年歳 | 活動歴 |
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1971 | 0歳 | 岐阜県郡上八幡病院にて生誕。大阪府大阪市在住。 |
1973 | 2歳 | 北海道札幌市へ。病気大怪我が続いたので、龍神との結縁を母親が手配 ご縁を結ぶ。 |
1976 | 5歳 | 大阪府堺市へ。光化学スモッグにて引きこもる。 |
1977 | 6歳 | 兵庫県神戸市長田区へ。そばめしと港、下町。堤防から観た水平線。 |
1982 | 11歳 | 兵庫県加古川市へ。ヤンキー文化を拒絶。村は狭かった。 |
1984 | 13歳 | 加古川市立中部中学校入学。当時全国大会レベルだった吹奏楽部へ。ドビュッシー、コルサコフ洗礼 |
1985 | 14歳 | 吹奏楽コンクール兵庫県大会Bの部金賞グランプリ。部内での一眼レフ流行を機に写真を始める。 |
1986 | 15歳 | 中古一眼オリンパスOM-10購入。初撮影ワンロール目カットNo.36Eがカメラ雑誌月例で入選。 原稿料、写真の現金化に驚愕しプロ化を即決。 |
1987 | 16歳 | 兵庫県立東播磨高校入学。写真部入部。当時あったカラー引伸ばし機の暗室に引きこもる。 |
1988 | 17歳 | 朝日新聞主催高校野球フォトコンテスト高校生の部グランプリ受賞。新聞7段掲載、テレビ朝番組出演などで周囲への認知度があがると共に マスコミの威力を体感。個の視点を世に問いかける意義を知る |
1990 | 18歳 | 東京工芸大学短期大学部写真技術科入学。広告写真研究科。B倍駅張りポスターに感動、広告写真を志す。 |
1992 | 20歳 | 同校卒。電通スタジオ助手勤務。3年6ヶ月、逃げ出したいほどの苦行で最高峰のライトコントロール術を手に入れる。 |
1993 | 22歳 | Kodak PCN Gold120を詰めたNew Mamiya6を手に作品「SEASIDE PARK」制作開始。仕事以外はずっと海に通い詰める。 |
1995 | 24歳 | 作品「SEASIDE PARK」完成を区切りに9月、同社退社。10月、日清ラ王藤井フミヤ総理大臣編現場スチールで職業写真家デビュー。 |
1996 | 25歳 | スターツ出版(株)社員カメラマン入社。 |
1997 | 27歳 | リクルート社主催第10回写真3.3m展「SEASIDE PARK」入選を機に同社退社。1度目のフリーランス |
2002 | 31歳 | 読売広告大賞企業協賛賞受賞。 |
2004 | 33歳 | ㈱電通映像制作部駐在フォトグラファー契約。 |
2006 | 35歳 | 第53回カンヌ国際広告祭メディアライオン部門ブロンズ受賞作品"TOYOTAトリノ五輪応援キャンペーン"新聞30段四連組、撮影担当。 |
2007 | 36歳 | ロケ地で訪れた熊野で不可思議な光を体験。「光とは何か」を問い続ける旅を始め、国生みから神道を捉え作品「座(さくら)」制作開始。 8月、駐在フォトグラファー契約満了を機に再びフリーランス。 |
2010 | 39歳 | 様々なシンクロニクティの結果、「光とは何か」を更に洞察する旅を始めるため、北東北にも居を構えての往復生活。 より深くより遠く森や海岸線や半島のその先へと向かう。(のち帰京) |
2011 | 40歳 | 撮影中心の生活から距離を置き、手代木潔氏より300時間手ほどきを受けhtml,css,flash等web制作術をマスター。 受講中、東日本大震災。制作が一気にパブリックスペースからプライベートな記憶へと移る。コミュニケーションのパラダイムシフト |
2014 | 43歳 | 個人ブランディング撮影会始動。コンサルティングから本人が持つ内在する光から逆算してライティングする撮影法が評価される。 |
2018 | 47歳 | 2007年より続けた「光とは何か」のより具体的なヒントを密教に見出し各地の山岳修行へ参加。 | 2019 | 48歳 | 山岳修行での圧倒的体験を経て「光とは何か」その解答をまとめ上げ、2007年より制作期間12年掛けた作品「光ル山 みつ」完成。 |